昭和40年07月24日 朝の御理解



 お取次ぎを頂いて、お願いをさして頂くという。ということは、神様に、お任せしますと、神様にお任せするという、ことになると思うです。「どうぞ、右になりますように、左になりますように、私はこう思うのですが、どうぞ、こういうふうによろしくお願い致します」と、こうお願いをするのですから、よろしくお願い致しますとお願いしたら最後、そこから先はもう、神様にお任せをするということなんだ。
 そういうその、お任せをするということは、信心の一番大事なことだと、こう思うです。そして、私たちは今日一日を、(沈黙) 神様のおかげの中に、神様の思し召しの中に、どう、有り難く生きらして頂くかということを、一生懸命考えたらいい、一生懸命そのことを努めたらいいと思うです。そういう生活が、ほんとの信心生活だと思う。私どもは、生身を持っておりますから、痛いこともありゃ、痒いこともある。
 様々な難儀を感じるのですけれども、その難儀を感ずるということをです「どうぞよろしくお願い致します」とこうお願いをするお取次ぎを頂くために。「どうぞよろしくお願い致します」ということはも神様にお任せをするということ。んなら神様にお願いをしておるから、まあそれでよいというのではなくてです、自分勝手に心配をするというではなくてです、お任せしてしてからその後はです、私どもが一生懸命なら今日一日をです、いかに生きるかと、ということを、そのことだけを考えたらいい。
 浅いところは竿で差す、深いところへ入ったら櫓(ろ)を使う。(沈黙)それは、一日一日の上にです、ね、竿で差せるようなところは、やはり、自分が一生懸命、竿を使わなければいけません。任せとるからというて、じっとしとっちゃいかん。まあだ、「船は帆任せ、 風任せ」というようにですね、ただ浅いところから、もう既に、帆を上げておるといったようなことではいけん。ね。
 竿を使わせてもらい、そこそこ深くなったら櫓を使わせてもらい、いわば人間の限界というところまでを、精進して努力していかなければならない。ね。それから先が神様にお任せする「船は帆任せは、風任せ」と、いうところのおかげを頂かしてもらう。 (沈黙) 信心生活信心とはね、徳を受けようと思うて信心をする、おかげを受けようと思うて信心をする。だからそう言う様なものではないと言う事です。ね。
 徳を受けようと思うて信心をするのでなからなければ、おかげを受け様と思うて信心するのでもないね、それは所々私共にはやはり情があり欲がありね、自分の思いがありやはりそのための欲が伴うておりますから、そこの所を御取次を頂いてと。私はあの御取次を頂いてという所をの、お道の信心が言わば独壇上の様に言われておるんですけれども、そう言う様な私共の情とかを、欲とかと言った様なものをです。
 例えて言うならば痛いとか痒いとか言う様な事をです、お取次を頂いてお願いをするとお願いをさして頂いたら、神様にお任せをすると言う事が、私はほんとのお取次を頂くと言う事じゃなかろうかとこう思う。「お取次」って言った様な言葉を使うのは、必ず金光教だけじゃない。例えばなら天理教なら天理教と、私は詳しくは知りませんけれども、んなら自分の難儀と言った様なものを、先生にいろいろお願いをすると。
 そすとやはり、教えを聞かしてもろうたり、または右にしたがよい、左がよいと言う様なことを教えて下さるのが、ま先生であろうから、言うならば、ただ「お取次」という言葉を使わないけれども、取次の御用、取次のというふうに、言うてもよい様なもんだから、必ずしも金光教の、いわば専売特許じゃないと、言った様な思い方を、私どもしておりましたけれども。
 やはり金光教の信心のお取次というのは、やはり独壇上のものであると言う事ですね。神様にお願いをするという、お取次を頂くと言う事は、神様にお任せをするということ。ね。そしてその次の在り方がです、ね、徳を受けようとかおかげを受けようとか言った様なものではなくて、人間として人間万物の霊長としてです、道理に合う生き方、ね、そこんところに、一生懸命焦点を置いて、どう有り難く生きるかとどう楽しく生きるかと、今日一日をどういうふうに生きるかと言う所にです。
 私は教祖の神様のご信心、いわゆる、教祖の神様の生きられ方というものを、教えて頂くのが道だと、こう思う信心のお道では。この様な場合教祖の神様ならば、どの様な生き方をなされたであろう、どの様な思い方をなされたであろう。ね。そこを私がまあ、御理解により御教えによって、現れておるところの、教祖の生き方というものを神習わしてもらう。そのことに焦点を置いて、そこには徳とか美とかいうのではない、徳とかおかげというのではない。
 どういう生き方をさして頂くかと言う事に、一生懸命焦点を置いていったらよいのであり、その先に私共は期せずして奇跡的な、言うならおかげになっておったね。あの時代にお徳というなら、お徳を受けたんであろうかと言う様な、お徳に身に付いて来るのである。初めからおかげを受けよう、初めからお徳を受けるためにと。というのではなくて私共の心に体に感ずる難儀をお取次を頂いて、お願いをしてお任せをするね。
 そして教祖の生きられ方というものをです、私共なら信心によって竿を差すところは竿を差さしてもらう努力をさせてもらい、櫓を使うところは櫓を使わして頂くところの精進をさせてもらい、ね、これから先は私共の知恵やら力では出来ないと。ね。だから小野先生が言われますように、ね、磨くというそこの限界というのものがです、ね、医者が医者の務めとか医者の働き、薬とかとういうものの限界というものを分かれば分かるほどです、それから先はもう任せるより他にない。
 それを信心のない者はただ、運を天に任せるといった意味のことを、言うわけなのですけれども、信心をさせて頂く者は、そこんところを取次ぎ頂けておると言う事が安心だと思うのです。ね。これから先はもう、あなたがおかげを頂かなければ立ち行かんのであるというところからです。ね。実意な姿勢を持って、神様にそのことをお取次を願い、お縋りをさせて頂くと。
 よく似ておるのですけれども、そこからがお取次の働きのすごい、いわゆる信心のある者とない者の相違というものがです、はっきりしてくるのじゃないかと、こう思う。ね。ところが私共は、例えば痛いなら痒い痛い、痒いなら痒いと言う事をお取次を願わせてもろうて、はあ痛かつが直りゃええ、痒いとが早うスッキリすればよいがと、いう思いを言わば持って帰る。
 持って帰ってその痛いことやら、痒いことにやはり、終始してこうさせて頂くことが本当の生き方で、例えば教祖の神様の生きられ方と言った様なものに、お勝ちになる。そこんところがなかなか、信心のデリケートなとこなんですけれども、だんだん信心を続けさしてもらい教えを頂かしてもらい、だんだん分からして頂くことをです、御願いをさして頂いたらもう安心、そう言う様な極端な言葉で言うとです、お願いをさして頂いとるから、神様がいよいよ修行して下さらんと。
 それをひとつ間違えると、御願いしとるけんで、神様どうかしてして下さるがのといったようなことになってくる。そこんところが、また難しい。お願いをさせて頂いとるけん、神様が、もうとにかく、おかげを下さるがのという、そこから生まれてくるところの安心、ではなくてです、お取次を頂いて、お願いをさして頂いたから、神様にお任せしたから安心。だから、その、安心した心で、竿を使え、櫓を使えというところが出来なければならん。
 そういう意味が、だんだんすっきりして来る事をです、信心が分かって来たというのであり、その辺がすっきりしてくるに従っておかげが、成程すっきりしてくるところの、またははっきりしてくるところの、神が神がこう分けて通りよるような実感の中に、日々を過ごさせて頂く事が出来るというふうに、私は思うのです。ね。ですからそれは難しいんですねやはり。今日一日を、例えば難儀なら難儀なことをです、ね、
 楽にして貰おうとか、道が開ける様にと思うてからお参りしようとだからと言うたら、もうそれまでなんですけれども、その事はもうお願いしたのであるから、お取次を頂いたのであるから、もうそこを神様にお任せさして頂いて、そして私共がその徳とかおかげとか言う所のではなくてです、ね、いかにそこんところを生きて行くかと言う事。ね。その生き方を椛目では、竿を使わして貰い又は櫓を使わして貰い、又は愈々これから先は神様のの世界であり、人間の限界というのはもう是までしか出来ない。
 医者で言うならば、もう医者がするだけの事はした、注射も打った薬も与えた。これから先は天に任せるというのではなくて、これから先は神様におすがりをさせて頂くという。ね。そこに言わば帆が掲げられる、いわゆる風任せのおかげを頂かしてもろうて、思いもかけないところにつかして頂く所のおかげになる。そこの所を椛目ではお願いをする。これから先をどう生きるかと。ね。
 例えば皆さん、今朝お参りされてからお願いなさったらです、そのことは神様にお任せして、なら今日ここをと決めて出てからです、どういう生き方をさして頂くかと言う事だけを考えたらええわけなんです。そして椛目でいつも申します、「今日は馬鹿と阿呆でいきなさい」と言う様な事になったり。ね。「こりを積むますな、こりを積むな、身を慎め」と言う事になったり。ね。信心辛抱さえをしておれば、物の整わんことはないと言う様なです、事に言うなら隊列すると、その様な事になって来るんですよね。
 そういう生き方が、言わば心を通わせて頂く、そこからの始まりでなければならんのです。そのことに一生懸命、私共が焦点を置いて、おかげを頂かして頂くうちにです、おかげはおかげとしてはっきりしてくるのであり、「ははぁあの時代にお徳を受けたんであるな」といういわゆるおかげも、利もね、徳もおかげも頂けていけれるところの世界。それが貢献されていく時に。
 だんだんいわゆる確信というか、不動の信念と言った様なものが培われてまいりまして、この生き方さえさして頂いておれば、間違いのないという道を、はっきり体得することができる。そこに安心の生活というか、喜びの生活が約束される。そこまで私は信心のいうなら、稽古に限りはないのですけれども、一通りの信心を身に付けるというのは、そこのところまでを、一通りの信心を身に付るというのではなかろうか。それから先に広くなり大きくなり、ね、深くなりそれから先が、いよいよ垢抜けしていくということは、もうこれは限りがない事なんだけれども。ね。
 一反のものが二反に、二反のものが、五反も作らして頂く様になるための、と言う事には限りがないのである。ね。そこんところの言わば、立ち行きを願わして頂いて、そこんところの立ち行きを日々お取次を頂いて、おかげを頂いていかなければならんという、ね。お取次を頂いてお願いをするということは、そう言う様な意味が含まれておる。金光教で言う、御取次というのは、そう言う様なものでなからなければならんと思うです。
   おかげ頂きました。